昭和45年1月18日
月次祭教話
「信に有難しと思う心、すぐにみかげの始めなり」、信に有難いと思う心、しかも、それはみかげにつながる、信に有難いと思う心、すぐにみかげの始めなり。どこから湧いてくるか分からないけれど、有難い物がこみ上げてくると、まあ、今日は一日、そう言うような一日でした。
見ても聞いても有難い、必ずしもそれが良い事とか、嬉しい事だけではないのだけれども、その有難い物が湧いてくる、はたして、その有難いと言う心がどこから湧いてくるのであろうか、そして、その有難いと言うのは、どこへ落ち着いて行くのであろうか、どこから来たって、どこへ去って行くのか、私は天地より他にないと思う、それが天地に通うからおかげになる、信に有難い、信に有難いと思う心、すぐにみかげの始めなり、どこから湧いてくるか分からない有難さ、これは、信心を頂かなければ頂けない境地なのです。
今日は、朝から日曜でありますと同時に様々な会合がここでありましたから、朝から賑ようておりました。第一、昨日の昼から今日の一時まで、入殿の形をとられて竹葉会の方達が昨日から泊り込んで信心の稽古をなさっておられる、若い嫁さん達のグループなんです。今日、若先生は風邪具合が悪くてから休んでおりますもんですから、先生が出らなければならない席でしたけれど、私が代表( ? )、9時からだったという事んですけれども、とにかくどうでも私でなからなきゃならない( ? )仕えとるもんですから、9時半もう・・・、やっぱり10時近くなりましたでしょうか、あちらへ参りました。で、まあ、そこでいろいろ話をさせて頂いた。
少年少女会は今日は例会であると同時に正月初の会合だった、何か会食をするというて、朝から( ? )しております、青年会の方達は、今日は信心実習会で箱崎教会に参りました、もう、あれやらこれやらで、まあ、お広前が賑う訳でございます。
そういういろんな会合の中に丁度次々お参りをする方達が丁度その若い嫁さん達なんですよね、高山さん所のお嫁さんが久しぶりに参ってくると思うと、由美子さん達が夫婦で参ってくる、( ? )達が若夫婦が参ってくる、結局そうい会合ですから、あなた方もお話を頂きなさいというて一緒に、ご主人もご一緒にお話を頂く、けれども、中村さんも由美子さん達夫婦を送ってこちらまでみえとりましたから最後までお話を聞いておられます。そこで、私は最後に大先輩である所の中村さん、何か一口お話をして下さい、まあ、私どんごたる年寄りがとこう言われましたけれども、すぐ、お話をなさいましたが、私は思いました、もう、中村さんあたりの場合にはですね、いつも自分の心の中に有難いお話しがいくつも用意されておると言うことです、ね、とっさに( ? )何を話していいやら分かりませんと言いながらです、現在、今私が思うておる事、それが有難い事につながっておる、ね、その有難いと言うお話、もう、とにかく、この方の道は喜びで開けた道と仰るが、喜ぶ以外にはないですよ皆さんと、喜ばせて頂く以外にはないですと、そういう喜びが朝、目を覚ますと同時にその有り難い物が開けてくる、外へ出らす真っ暗の中に朝の御祈念にでもお参りさせてもらう、ね、そのひと時の有難さ、つつみさんの車にべんじょして朝のお参りをなさいます、前には静かに静まり返った御広前の中から、これは、無言の有り難さと言う物が流れてくる物を心にヒシヒシと頂けた、または、まさあき先生のあの勢いの良い大祓の声が流れてくる、または、少し遅くなると親先生の御理解が始まって、その御教話がお玄関の所で流れてくる、それを聞く、または無言の音を心に頂きとめるという事、信心させて頂く物の喜びが、もうこれに尽きた事はないという意味の事を色々話しまい、ね、これは皆さん、朝参りでもなさる方は、私は非常にやはり、そういう感動を受けられる事であろう、朝参りの魂、朝参りの喜び、これは、もう、何も変えられない、現在なんかは、寒修行中でございますから、もう、若先生が御祈念、5時の御祈念の時には、もうここでいっぱいの人が集まっておる、堂々と高らかに大祓いの声が流れる、なんとも言えん、まあ雰囲気、その雰囲気に慕うだけでもおかげを頂くだろうなとこう思う、有難い、ね、その有り難いを元に( ? )立ってくる、ね、朝が白々と空き始めると東の山からにちりん様が上がられる、それを拝ませて頂きながら合楽に向こうて来る、なんと有り難いことであろうかと、にちりん様にお礼を申し上げます、今日も一日お照らしのおかげを頂きまして、おかげを頂きますとお礼を申し上げておると、どこから湧いてくるか分からんけれども喜びが湧いてくる、そう言う中村さんの喜びをです、ね、まあ、いろいろな形に形容してお話になりました。
私はその有り難いと言う物がね、いつも絶えず自分の心に頂けておる精進というか、努力と言うか、それがなされて行かなければ、とっさに言われたからお話も出来ないと言ったような事ではなくて、現に今私が有り難いと思うておる事を話したらいい、だと私は思うのです、ね、その有り難いを元にしての信心なんですから、ね、青年会会長( さん)が前講をつとめておりました、数をあたりましたら、まだ25しかみえておりませんでした、けれども、言うならば、花目の合楽の、言わば独身の方達、( ? )と言うほどしの方達が、こう、揃えておりました、もうそれが有難うして、有難うして答えん、いかにもオーバーのようですけれどね、もう、これはその方の言葉では実際表現できないのです、ね、一生懸命お話をしておるのを一生懸命頂いておられる、そのことのお礼を申させ貰っておりましたら、ここのお広前がいっぱい信者でうずまっておるような状況を伺えた、言うなれば、一人で10人分も20人分もの力を持ち信心をいただいておる人達が集まっておったという事なのです、なるほど、25人であっても、10人分なら250人( ? )
というものが有るんだ、もう、私はそんなに、もう、本当に有り難い事はない、力が頂けていきよる、それだけの光をもっておる、( ? )いらんなあ、そう言う人達がです、そう言う有り難い物の中に秘めた人達がです、20人でも、30人でもあるということが教会の力にはもちろんですけれども、ね、世のお役に立つ信心がその人達によって発揮されていくことでなりましょう。
皆さん、私だけの信心だけではダメ、それこそ、10人匹も20人匹も、いや、100人匹を者を力を頂かせて頂く事を目指して、お互いが信心をさせて頂かなければならないと思うのでございます。
久保山会長の話しを頂いておりますと、うん、御結界からあんまりマイクが少し響きすぎてよく聞こえないのですけれども、開口一番、ね、去年、そして、一昨年、ここの御広前のスローガンとでも言おうか、信心の目当てとでも言おうか、限りなく美しうなりましょうということに( ? )または、精進させて頂いた、いよいよ、より明るく、より賑ごやかにというような信心に焦点に向かって取り組んだ、けれども、それは対した収穫を得てないようにありましたけれども、今年、どうぞ世の御用に立たせて下さいという祈りと願いという物を持たせて頂く所に、確かにそこまでの体験談を話しておるようでございましたが、ね、この日の為に去年があり、一昨年の御教えがあったと思いますということが( ? )、ね、この日の為に限りなく美しうなる事に出来なかったけれども務めた、ね、出来なかったけれども、より豊かに、より賑やかにその事に焦点を置いて務めさせて頂いておりましたら、今年の世のお役に立とうという、立たせて下さいという、そういう祈りするらが出来なかっただろうと思います、ただぽかっとこんに、どうぞ世のお役に立たせて下さいと、例えば、いかにここに焦点を置かれましても、自分の苦労ですらいっぱいなのに世のお役になんてという事になってくる、けれども、去年から、一昨年から、その有り難い、言わば、限りなく美しくなりましょうと言う事に信心の、言わば基本とでも言う、そこの所に出来んながらも取り組んで来た事がです、今年の世のお役に立たせて頂こうということになり、そこまでの、言わば様々な難しい人間関係の中に、ね、そういうその人のためにお役に立つ、世のお役に立つにつながる信心生活が出来ておった、まあ、生きて行きよると言う意味合いの話しのようでした、ね、有り難いと言う物がどこから来たってどこへ立っていくのか。
今日は青年会の信心実習会で学院の修行生先生の話しを二時間半にわたって、その御講話を頂いた、天地と私共人間の関係について、横柄について言うなら、私共は親神様とこういうが、親神様と氏子との横柄という事について、もう、徹底したお話であったという事です、教学的に、または、哲学的に、いよいよ深い、大変な、大変なと言うか、学者でありますしね、先生は、そして、信心もあの世に出来ておるのですから、その話は、確かに有り難い物であっただろうと思います、ね、その天地と私共のこのつながりがです、ね、理屈の上では分からなくても、哲学的意味合いにおいてその深さは分からなくても、ね、にちりん様が上がられる、そのにちりん様を拝ませて頂くところへ、今日も一日お照らしのおかげを下さる、その事の感動と言うものがです、今日もあなたのおかげでという所にです、理屈抜きに親と子とのつながりが私は出来て来るんだとこう思います。この喜びがどこから来たって、そして、どこへ立っていくのであろうかと思われるほどしの有り難さというものが今日一日私をです、支え、目をつぶると悲しい事がある、ね、( ? )けれども、ね、悲しいけれども有り難い、このような悲しい中にあってどうしてこのような喜びが頂けるであろうか、分からない、どこから来た、来るか分からない。しかも、その喜びがどこへさって行くか分からないけれど、ね、天地との関係、それを私は哲学的には分からないけれども、教学的には分からないけれども、そこに、いよいよ親と子とのつながりがです、神様の願い、私共の願いとのが、願い合う事の働きがです、働き合いがです、有り難いという心によって結ばれておると言うことなのです、そこに、真に有り難いという心、すぐに御影の始めという事になるのではないでしょうか。
そこでです、その有り難い物がどこから来るのかと、ね、この日のためにあの御教えがあったんだと、例えば、青年会長が行っておりますように、私共が日日信心の稽古をさせて頂く、ね、それは出来ない、けれども曲がりなりにでもそこに焦点を置いて生かしていく信心の稽古がね、いつのまにか有り難い物になっておる。
私は、今日竹世会の方達にお話させて頂いておる、前にあった、雑誌をちょっとはぶったところが、そこに私が鉛筆で書いておる、ね、それは確かに、何ヶ月前に頂いた御理解だと思う、もう、忘れてしもうておりました、それが、そこにちょっとこう、書いてある、『地真水心』地真水心、地の真、水の心とある、大地の真という事はどういうことであろうか、なかなか賑こやかにも出来ない、ね、豊かに行く( ? )と思うても出来ないと言ったような中に、ずっと心の中に「生神金光大神様」を唱えさせて頂きながら、その例えば、不愉快とか、愉快ではない事の、会った時、「生神金光大神様、生神金光大神様」と祈り願わせて頂いて、ここでこそ、いよいよ豊に見習わなければならないと言った、ここでこそ、明るい心を頂かなければならない事だと、出来んなりにもその事に務めておるという事、ね、それが、私は地の真だと今日は思いました。地にはそういう真がある、大地にはそういう真がある、ね、黙って受ける、いわえる、大地のような信心と言われる、ゆえんなのです。
その地の真、それがです、ね、同時にです、水心の形を持って行じられて行く、成り行きを大切にと、成り行きを大事にと、ね、水が形に従ごうて行くように、ね、水が形に従ごうて行くように私共の心がです、その場その場において、そこに信心を現して行くということが水心だと私は思う、ここでは現されるけれども、ここでは現せないと言う事ではない、御広前では有り難いけれども、内の職場では有り難くないと言う物ではない、職場には職場の、それは水の心のようにどういう所にでもしんとうして行く、ね、( ? )その水はいつかいっぱいになって自分で道を作って流れて行くように、そういうい、いわえる心を水心と言うのだと、そういう風に御理解を頂いたのではないかと、今日は改めて思うてみた、ね。
初めて竹世会に参加した若い婦人があった( ? )、( ? )心を使うですね、ですから、まあ、内のお許しを頂いてきておりますけれども、え、やはり人間心を使う、それでおうちに( ? )から電話をしたらしい、ところがそのお母さんが、そこにはお婆さんが二人おられる、お母さんと、おばあさんが、今日は、あの、私どもは温泉行くじゃんのうということを仰る、それで、なら入らせて頂きましょうかっち言うたら、それはあんたがよかごつで良いと言う事になった、自分のは昼間でとてもおかげを頂きたい、本当に初めて頂くお話ばかり、今まではちょいちょいお参りはしよったけれども、お話しを、先生聞かせても下さらなかった、皆が熱心という事を聞いておられても、まだ聞いて帰ろうとも思わなかった、けれども、その話がなるほど、なるほど( ? )今日こそはと、昨日から今日に限って( ? )所へそういう風に腹を決めておるとこへです、今のような( ? )、ここへ出てきて、だから今から帰らせて頂こうと思います、せっかくおかげを頂いて、昨日から泊り込みで信心の稽古をさせて頂く、それこそ、いかん、もう帰らんと電話をかけなさいと私は一応申しましたけれど、ね、それは・・・、やっぱり帰ったらよかろう、ね、あんたの立場としてやっぱり帰えらにゃん困るだろうからと、涙ぽろぽろ流しよります、ね、私の方の家庭はいかにも、その、あーだた、こうだたというて、いかにも嫁と姑が中がいうて、家庭円満( ? )というように、いわえる、思われておるけれども、実際はこういう雰囲気が私の家の中にあるというのである、どうで少皆さんなら、ね、あんたがよかごつということはですよ、さあ、そちらへおってもよかですよと、帰って来てもよかですよ、ただし、それがしゅうと親である人が( ? )に対する言葉であろうか、帰ったら、あら、あんた帰ってこんでよかったとこで、子供達はばばしゃんに( ? )言うたに違いない、いわすんならば、普通親先生のごたるごつを言うとじゃんその人は、ね、今日はせっかくじゃから、しっかり信心を頂いてこんの、お話しを頂いてこんのというたらです、腹は決まるのですけれども、どうでもよか、あんたのよかごつと、二人の子供を内に置いてきておる、それもあるもんですから、やっぱり泣き泣きでも帰らにゃん。お互い、そういうしゅうと親になっちゃでけんですよ、そして、嫁には一つも無理は言いよらん、一つも縛ってはおらんと言いよる訳です、どうでんよかごたるふうに言いよる、いつでん、そういう事ではでね、私は家庭の中は具合がいかんっち、そう言う時には本当に信心を現していくお母さんにならにゃんダメだと、長年信心しておるばかりが能じゃない、だから心からいろいろ進歩せんのだと、ね、日常生活立ったらその調子なんだ、ね、嫁としてです、ね、あんたがよかごつばいち言うなら、やっぱり帰えらにゃおられん、ね、そこで私は申しました、けれどもね、そればお母さんが言いござるじゃない、神様が言いござると思うて、昨日から今朝にかけてから御祈念の稽古をさせて、お話を頂く稽古をさせて頂いた、だから○○さんここだけはひとつ頂いて帰らんのう、ここんと頃に一つのお互いの信心の一線上と言うなら、そこには出らにゃ行かんのです、家内が軽く見る、子供が言うことを聞かん、お母さんがああいう意地の悪るな事をいわっしゃる、そこにくうっとするような事であったり、どうして俺の言うことが聞かれない、俺を軽く見るかと言うではなくて、どうして子供に言うこと聞かんのかというのではなくて、ね、なるほど神も見られるはずだと、ね、なるほど、子供が言うことを聞かんはずだと、なるほどお母さんが意地悪を言いなさるはずだ、自分の心にも口にこそ言わないけれど、態度にこそ現さないけれども、いつもそう言う言う人、言う人が世の中にはあるのだと言うことをです、わからせて頂く時にそれはおばあちゃんじゃない、お母さんじゃない、それを神様の声として、それと同じような事がこちらにあるからお母さんがそう言う時にそう言うふうに言いよるだと分からせて頂いたら有り難い、そしたら、今度は反対に有り難涙のような涙を流しておかげを頂きました、残念ですけれども帰らせて
( ? )、それから、しばらくしてたら、その人の弟達夫婦がやって来た、あらっ、さっきからまであんたげん姉さんがきとったばいっち私が言うたら、( ? )私は先ほど言うて来たっち、姉さんが喜んで帰ってきたら、あの、バスで( ? )あっちまで来たら、丁度自分の甥にるとがですね、私もどげん言ったのうちいうてから、自動車が止まったんです、こげんなふうで合楽までお参りを…、そんなら私が送ってやろうと言うて、そうとやはり一里位ある所ですから、乗り物がない所ですなかなか、ですからそこまで送ってくれた、だから思いがけなく早く帰ることが出来たと言うて姉さんが喜んで帰ってきました、有り難いなあと私は思うた、お母さんは意地が悪い人だと、せっかく自分がきとるのに、昼までおってきてよかがのうと言わっしゃると思うて期待して、只行き届く、意味合いにおいて電話をかけた所が、今日は私は温泉に行くがのう、そんなら帰りましょうかっち、いんや、あんたがよかごつっち言わっしゃった、そういう言い方があるだろうか、ね、もうよかよか二人の孫達は叔母シャンにお願いして行くから、あんた、昼までしっかり信心を頂いてこんのと、例えば期待していがうた所が、あんたがよかごつち言うたけん、それがもう( ? )。
せっかくの昨日からの信心もどこへいったっちゃ分からんごつ有り難くなくなった、けれどもです、そこの所を、ここだけは覚えて行けと、おばちゃん達が意地が悪いならあんたの心にも言葉やら態度にこそ表さないけれども、同じようなもんがある、どうしたばばしゃまじゃろうかというその心がもう( ? )、ね、真に有り難いと思う心がすぐにみかげであるという事が分かるでしょうが。
今日の月次祭に、皆さんが、吉井の熊谷さんが、ここへ向こうてみえておられるバスの中に、( ? )御心眼を頂きましたと、「小さい白い陶器のとっくりから、お神酒らしい物を私についで下さる」所を頂いた、あ、有り難いことでよと、ね、有り難き、勿体なきをこうやって下さる、自分の心が合楽へ神様へと向こうて来る所に、もう神様は有り難い、勿体無き、恐れおきの三喜を、お神酒を、もう、バスの中で頂かせて下さる、あれを思い、これを思いすりゃ、そう有り難くばっかりなれない、現在熊谷さんの状態なのだけれども、けれどもいつも有り難いというものを頂いておるということがです、バスの中で感じよる、ね。
昨日、一昨日、サエコさんの告別式がここで行われました、それで、( ? )方はこちらへお参りをする、奥さんは自分おうちで今ごろは式の時間じゃなかろうと言うて御神前でお礼をさせて頂いた、ところがね、神様からお知らせを頂いた、ね、「真の水」と頂いた、ね、そしてです、心に信心に響いてくるのは、それを真の水とは読ませずに、ますい、ますいと頂かれる、真の水と、素晴らしい事だと、ね、お礼をすまさせて頂いてから、お野菜をそろえさせて頂いておりました、で、この寒中に寒い所で冷たい野菜を受けっとたり洗ろうたりすると言うことは、それは辛い事であろうとこう思うのです、けれどもね、寒いも感じなければ、暑いも感じない、さらりとも感じない、只、どこから湧いてくるか分からない有り難い、もうどうも、もうどうにも、声をあげて泣こうごつして、野菜をそろえながら、ね、これはどういうことであろうか、この寒いのに寒さを感じない、こう言う大手術をするのにそこが痛まない、ますいを掛けられておるからだと私は思うのです。
しかも、真の水、真のお恵みが掛けられておるからだと、水はお恵みである、私共がです、信心させて頂いて、そう言う真の水に触れておる時、その真の水を頂いておる時にはです、言わば、麻酔を掛けられておるように、本当にこのように悲しい中にどうしてこう言う有り難いものが湧いてくるであろうか、普通から言うならこう言う切ない時に、ね、こう言うじつない時にどうしてこう言う有り難いものが頂けるであろうか、厚さも感じない、寒さも感じない、さらりも感じない、いわえる真の信心の頂いておる物の私は、いよいよ真にというか、信心の味わいはここにあると思います。
こう言う信心をしなければ分からない、だから、そう言う生活がですね、出来たらどんなにかいが出来てくるであろうかと、どういう中にあっても有り難い、この世は苦の世、苦の世界だとお釈迦様が仰るように、確かにこの世は苦の世である、今朝の御理解に、御理解49節を頂いた、『信心は合縁奇縁』と言う。その合縁奇縁と言う合縁を「愛縁」と頂く、機縁とは『心の縁』きは心と、心の縁というようにおいて頂いた、せっかく修行させて頂くならばです、ね、心の縁によって結ばれるようなやはり心行をさせてもらわなければならないと言うような御理解でございました。
昨日、熊本の富永先生達が夫婦で正月からお礼に見えて参りました、もう、年末から忙しいことでございましたと、おかげを頂いて、段々信者も多くなって参りました、おかげを頂いて、お願いしておりました家の事が、もう、先生かんながらというのはこんなものだろうかという、日奈久という温泉近い、温泉誓近いですねあそこは、もう、一番寝向きの場所からちょっと離れた、実に完成な、しかも、教会として初めから作ったじゃなかろうというような立派な家を頂いた、ね、もう、年末に忙しいのに、もう、それこそ、やーやー、( ? )言われるもんですから、そこへ移らせて頂くほどのおかげを頂きましたと、お金もなからなければつぎんもない、私共が十何年前ここに布教に出てくる時には一人も信者もいなかった、十何年間、やはり布教しよって今日までおかげを、それこそ、食べるやら食べんやらと言ったような状態で今日までおかげを頂いてきた、ね、たまたま椛目にご縁を頂いて、今日合楽へ毎月、月参りをして参ります、ね、本当に御神意のまにまにおかげを頂かせて頂いておりますが、( ? )命じられて、さあ、出てくれ、もう出てくれと言われた時に、まなんと、今まで十何年の付き合いで不義理もしとらんのに、どうしてそげんえげつのう言わんならんだろうかと言うようにして言われる、ね、または、睡眠のような物を使こうてからまで、その、さあ、出る( ? )教学的に言われる、それが残念、それがはがいい、そのことをお届けさせて頂いたら、親先生が仰った、富永さんそれは決して冷たい心じゃないよっち、相手は、ちょうど雪のようなもんだと、だから冷たいと思えや冷たいけれども、その雪の実体というか生態というか、その雪の結晶と言う物を顕微鏡で眺めてごらん、それこそ、だれがこのような細工をしたであろうかというようにです、微に入り細にわたっての、あの菊の模様という、ざんかして、しますよねあれは、素晴らしい形になっておる、それをですよ、どこんでんそのような素晴らしい事にしてくださるのか、ね、これは冷たいのじゃない、神様の深い、深い御神意、御神意あっての事、その冷たいと思う事は有り難い事のだから、お礼を申し上げる事以外にはないよと言われておったが、それから段々信者が増えて、おかげを頂いてる、日に一万円でものお供えをする信者が出来ていった、そげんなんふうなら先生、ならどっか家ば一軒買いましょう、どっか家ば探しましょうと言うて、一生懸命になってくれた、年末に忙しいのにそう言う、それこそ、教会の為に、布教所時代の時の布教所時代の家であったが、教会にならせて頂いたら、教会にふさわしい家が、しかも、場所から言うても、環境から言うても神様のお計らいにはおそれっいてしまいます、本当に親先生が仰るように相手が冷たいのではございませんでした、神様の神愛に夫婦の物が緩急して毎日御用させて頂いておるというて、言うております、ね、そう言う例えばです、その頂き方が出来る事はです、私はこう、有り難い物を熊谷さんなんかはついで下さるのじゃじゃかろうかと、ここに来るとそれが頂けるのだ、今まで、お母さんが意地の悪い人だと思うて涙が流れておったのが、ね、一晩泊まりで稽古させて頂いておる内にこれだけは一つお土産に持って帰らんのうと言ったその事がです、はあ、本にそうだったと感じて、ね、有り難いと思うて帰えらせて頂きおったら、帰りにはそう言う不思議なおかげの中に、ね、内まで送って届けてもろうて、おかげを頂いた、おかげを頂いたといって姉さんが喜んで帰ってきたというような雰囲気が生まれた、どんな意地の悪い嫁、おっ母さんでもです、それはスマンじゃったのう位な事は言うたじゃろうと思う、ね、そう言う働きがです生まれてくる、ね、そう言う有り難いと思う心がです、ね、どこから湧いてくるか分からんほどしに湧いてきて、しかもそれがどこかへ去っていく、どこへ行くのか、天地より行く所がない、そう言う喜びが天地に響くのである、天地に木霊(こだま)するのである、素晴らしい事です、真という、信心の喜びというものは、それが、天地が自由になるほどしのそこにおかげになってくる、ね、こう言う家があった、こう言うところに車が、しかも、追い抜くのはやって来る、天地にその喜びが木霊するからそう言うおかげになってくるのです、ね、それにはです、ね、久保山会長がいうておりますように、ね、この日の為にと思われるようにです、ね、一昨年から去年にかけて一つの焦点を置いてその事に信心の稽古を曲がりなりにも、出けんなりにもやらせて頂いておったら、いよいよという所に、そう言う職場に置いてのおかげの現れてくるようなおかげが頂けておられるように、このような悲しい中に、ね、どうしてこのような喜びが湧いてくるであろうかというようなおかげ、ね、地真水心である、常に私共がです、地の心を心としての稽古であり、水の心を自分の心の手本としてです、素直に、素直に、どういう器の中にでも入って行けれる信心の稽古をさせて頂いておるという事がです、ね、天から湧いてくる、そして、力、力湧いてくる、天からってくるというほどしのおかげをです、ね、天地の親神様と私共氏子との係わり合いに置いてです、それを交流という事に置いてです、おかげがそこから頂けて来るという、そう言う仕組み、そう言うシステムが私はお道の信心のおかげだとこうおもうのです、ね。
どうぞ一つ皆さん、ね、久富さんが頂いておられるそれじゃないですけれども、ね、私共がどういう難儀な中にあっても、真水(ますい)を掛けられておる時には難儀を難儀と感じない、こう言う中に難儀を感じんで済むという事がなんと有り難い事かという事になってくる、その真の水に触れると言う事がです、私は地真水心の、言わば信心、ね、その事を焦点にしての日々の信心の稽古と言う事がです、いよいよの時にそのようなふうに現れていき、また、物をいうて来るではなかろうか、真に有り難いというその心を目指してのお互いが信心、どのような中にあっても有り難い、それを場合には自分の心の中から、場合にはお取次ぎの働きによって、ね、例えば、情けないと思ったのが有り難くなったというのは、これはお道はこう、良くなったようなもんだと、お取次ぎの働きがそのようにして現れてくる、そう言うおかげを日々蓄積(ちくせき)して行くという事がです、ね、ご神徳を頂いて行くことだと、ね、お道の新人はどこまでもです、こう言う生き方になればお徳が受けられるという生き方を持って始めてお道の信心だといわれております、この生き方、只おかげをご利益を頂くという事に置いての信心であったら、それはもう、おかげだけの事、けれども、このような信心をさせて頂きゃ必ず御神徳が頂けれる、あの世にも持ってゆけ、この世にも残しておけれると言うほどしのです確信、またそれをです、行じていく喜びをです、頂きながら日々の信心の稽古が出けていくおかげを頂きゃならんと思うのですね。
なるほど、どこから湧いて来るか分からん、どこへ去っていくか分からないけれども、この喜びがです、どこへ行きよるかと思うたら、天地に通っておった、だから、いくら喜んでも、喜んでも天地はもう、そげん沢山喜びを送ってもろうたっちゃ困るということはないということ、ね、限りなく、しかも深い広い意味合いにおいての喜びを頂かせてもろうて、ね、その喜びを天地にお返ししてくるとでも申しましょうか、ね、天地から来たって、天地へ去っていく、そう言う、私共は信心を頂いておる。
今日、竹世会の( ? )今朝の御理解を頂いて、金光様の御信心とはという事をそれぞれいろいろ御理解の中から頂いておられます、お互いがです、金光様の信心とはと問われた時にどう答えるか、中村さんじゃないけれども、金光様の一番有り難い所を、一番間違いない所をいつも自分の心の中に頂いておる、いつでも問われた時にそれがお話になって出てこれる、そう言うね、蓄(たくわ)えもやはりしとかなければ世のお役に、いよいよたたせてもらう時にです、ね、この日為に日頃信心の稽古をしとったと思われるほどしにです、有り難いお話が、お話になって出てこない、ね、稽古もさることながらそう言う有り難い物を蓄積(ちくせき)しとかなければ行けないと思うのでございます。
どうぞ。